【笠置シヅ子の夫】吉本穎右(えいすけ)との馴れ初め・出会いと死因とは?結婚を母親が猛反対?をタイトルにお伝えしたいと思います。
NHKの朝ドラ「ブギウギ」は、戦前の時代を描いています。
物語はとても面白く、次にどう展開していくのか気になるでしょう。
特に、笠置シヅ子さんが愛する人との出会い、そして恋に落ちる瞬間が早く見たいですね。
笠置シヅ子の夫は、吉本穎右、どんな人?
笠置シヅ子最愛の夫。吉本えいすけ氏https://t.co/jEyocBY1wy#ブギウギ#朝ドラ#笠置シヅ子 pic.twitter.com/lVfTQpOLfi
— もちまる (@RlfrOfgUzEJRXYh) October 6, 2023
今作では、笠置シヅ子さんが吉本穎右という人と恋に落ちますが、夫となる彼には母親が反対します。
笠置シヅ子さんの夫である吉本穎右についてもっと詳しく知りたいですね。
吉本穎右は、1923年に大阪で生まれた、笠置シヅ子さんよりも9歳若い男性です。
彼は家族の中で次男として生まれ、幼少期に兄や6人の姉たちを亡くした悲しい過去を持っています。
彼の母親は吉本興業を創設した吉本せいという人物であり、その息子が吉本穎右です。
吉本穎右は早稲田大学で帝王学を学び、その後吉本興業を継ぐ立場となりました。
吉本穎右は幼少期から健康が弱く、肋膜炎や結核の持病を抱えていました。
彼は早世しており、写真などが現存しているものは少ないですが、その容姿は品があり、当時の言葉で言えばイケメンだったと伝えられています。
物語の中で、水上恒司というキャラクターも登場し、適役が演じられていることで話題となっています。
笠置シヅ子と吉本穎右との出会いは?
「ブギウギ」では、笠置シヅ子と吉本穎右の出会いにも注目が集まります。
笠置シヅ子はジャズ歌手として名を馳せ、吉本穎右との交流がどのような影響を与えるのか、楽しみですね。
30歳になった吉本穎右さんは、1943年(昭和18年)に名古屋の御園座で公演を行っていました。
ある日、俳優の辰巳柳太郎さんの楽屋を訪れることになりましたが、中に入る方法がわからず立ち往生してしまいました。
そこへ、笠置シヅ子さんが手助けしようとしてくれましたが、吉本穎右さんはとても謙虚で素直に助けを受けることができませんでした。
その後、笠置シヅ子さんから誘いを受け、一緒に帰ることになりました。
先に駅に到着していた吉本穎右さんは、笠置シヅ子さんのために席を取り、荷物を運び、車中で色々な話をする機会を得ました。
この出会いから親交を深め、1年半後には恋愛関係に発展しました。
当初は笠置シヅ子さんが吉本穎右さんを「弟感覚」で接していましたが、それが恋愛に変わるきっかけとなりました。
当時は身分の差が気にされていました。
吉本穎右さんは服部良一先生の支えも失いながら、歌手としての活動を続けていました。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で、お互いは無事でしたが、焼け出されたため同棲生活を始めることになりました。
吉本穎右さんは笠置シヅ子さんの興業を手伝い、マネージャー的な役割を果たしました。
戦争が終わり、半年間の同棲期間を経て一度はそれを解消します。
この短い期間に笠置シヅ子さんは、「わが生涯 最良の日々」と語っています。
吉本穎右さんは早稲田大学を中退し、笠置シヅ子さんとの結婚準備を進めていましたが、実際には結婚することはありませんでした。
その理由について、興味をもって探ってみるのも面白いかもしれません。
笠置シヅ子と夫、吉本穎右さんは結婚した?
1947年(昭和22年)の10月、笠置シヅ子さんが妊娠したということがありました。
実は、吉本穎右さんの母親である吉本せいさんは、笠置シヅ子さんと吉本穎右さんの結婚に反対していたのです。
引用元:Wikipedia
しかし、笠置シヅ子さんが妊娠していることが分かり、歌手としての引退を条件に結婚を認めることになりました。
この決定には、吉本穎右さんの毅然とした説得が影響していたようです。
笠置シヅ子さんも最終的に歌手を引退して専業主婦となることを決断しました。
彼女は身ごもりながらも最後のステージに向けて奮闘していましたが、運命は彼女に厳しく降りかかりました。
1947年(昭和22年)、笠置シヅ子さんは子供とともに吉本興業を支えつつ、過労がたたってしまいました。
彼女は風邪を引いてしまい、徐々に症状が悪化していきました。
そして、5月19日に永眠されました。
死因は奔馬性急性肺炎でした。
笠置シヅ子さんは、側に家族がいない中、突然の死が訪れたことで驚きや悲しみを感じたことでしょう。
彼女は、未だ入籍が済んでいなかったため、正式な結婚を果たす前に亡くなってしまいました。
身ごもった身で大切な人との別れを迎えた彼女の姿は、心を打つものがあります。
笠置シヅ子さんは、吉本穎右さんと初めて会った際にもらった名刺をずっと身に着けていたと言われています。
彼女の愛らしさと、このような悲劇的な出来事が彼女に訪れたことに私たちは胸を痛めます。
笠置シヅ子の夫、吉本穎右の母親は結婚を反対していた?
吉本穎右の母親、吉本せいさんの立場にも注目してみましょう。
吉本穎右の両親は、吉本興業の創始者であり、父親は若くして脳卒中で亡くなっています。
その後、母親である吉本せいさんは、多くの人々の支援を受けながら、関西のお笑い界の拠点を築くまで苦労しました。
彼女は「女帝」と呼ばれるほどの強さを持っています。
吉本せいさんは、笠置シヅ子さんが芸能界で活躍していること、9歳も年上ということで結婚に猛反対していました。
吉本せいさんは芸能人を起用する立場であり、彼女は商品として扱われることも理解しています。
吉本せいさんは8人の子供をもうけ、うち7人が病気で亡くなった過去を持っています。
たった一人の跡取り息子が、9歳も年上の女と一緒になりたいと言われたら、最初は反対するでしょう。
しかし、息子から優しく説得され、結局はその女性との間に子供が生まれたことで考えが変わりました。
さらに、吉本穎右さんが亡くなった後、笠置シヅ子さんは吉本せいさんのもとを訪ねました。
母子二人になってしまった彼女は、吉本せいさんに子供の面倒を見てほしいと頼みました。
この提案は、吉本興業に引き取らせる、つまり里子に出すことを含んでいるのでしょうか?しかし、自身が養子として育てられた経験を考えると、自分の子供が同じような思いをするのは避けたいと感じたのでしょう。
そのため、結局は彼女は自分で子供を育てることを選択しました。
吉本興業の創始者は女性だったとは!!
笠置シヅ子の夫の死因は?
吉本穎右さんが亡くなった原因についても注目すべきです。
彼はもともと健康が弱かったようでした。
当時の出産率は高かった一方、子供の死亡率も高かった時代であり、肺結核のような病気も広く蔓延していました。
吉本せいさんも肺結核の持病を抱えており、吉本穎右さんにも同様の病気があったと考えられます。
この病気は現在では治療可能ですが、当時は国民的な病気とされ、吉本穎右さんの病状が悪化した理由の一つとなりました。
彼女も子供たちを亡くし、悲しみに暮れる中でした。
穎右さんは亡くなった後、わずか3年後に彼を追うようにして死去しました。
彼の舞台上での輝かしいパフォーマンスや明るい歌声を見ると、彼もまた日常生活があり、私たちには理解できないほど多くの人間模様があることを感じさせられます。
まとめ
見事に明るいイメージで知られる笠置シヅ子さんも、実際には様々な苦難に直面していたのです。
そんな彼らの人間ドラマを考えながら、彼らの出演するドラマや番組を見続けたいと思います。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました!