女優の米倉涼子さんは多くの作品で主演を務めていますが学生時代はバレリーナやトリマーを目指していたそうです。
芸能界に入ったきっかけは何だったのかに気なりますね
今回は、米倉涼子さんの経歴や出身学校について調べてみました。
米倉涼子のプロフィール&経歴
米倉涼子さんは1975年8月1日に神奈川県で生まれました。
身長168cmで血液型はB型、所属事務所はDesafioです。
1992年にオスカープロモーション主催の「第6回全日本国民的美少女コンテスト」で審査員特別賞を受賞
翌年にモデルデビューし、ファッション雑誌『CanCam』で専属モデルを務めました。
友人が米倉涼子さんをオーディションに応募していたため、最初はアルバイト感覚でモデルの仕事をされていたそうです。
他のモデルたちと交流するうちに意識が変わり1999年には「女優宣言お披露目発表会」を開催、女優に転身しました。
女優になることに最初は戸惑いを感じていた米倉涼子さんですが、ドラマ『恋の神様』で
木村佳乃さんに思い切り引っぱたかれるシーンで「リハーサルでは優しかったのに、本番では本気で痛いことをするんだ。こんなに悔しい気持ちになるんだ」と気づき、演じる楽しさを見出しました。
「女優宣言したからには、絶対に3年で主演女優になろう」という思いで活動を続けましたが、多忙な中で売れないというジレンマを抱えていたこともありました。
ドラマ『非婚家族』で共演した真田広之さんから手厚い指導を受け、役作りを徹底的にしたことが話題となりました。
これをきっかけに、「私は真田さんのような役者になりたい」と思うようになりました。
『黒革の手帖』シリーズや『松本清張 けものみち』などの作品で悪女役を演じ役柄を広げ、2006年には『黒革の手帖』の舞台にも出演しました。
さらに、2008年には『CHICAGO』の日本版に初出演し、2012年にはブロードウェーで主演を務めるなど、幅広い役柄に挑戦しています。
日本人女優がアメリカ人役を演じたことはブロードウェー史上初で、アジア出身の俳優としても初めての快挙でした。
また、『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』は、7シリーズにわたって放送され、代表作となりました。
米倉涼子の美しさ
米倉涼子さんの美しさは若い頃から現在に至るまで変わることなくネット上では男女問わず称賛の声が絶えません。
米倉涼子の学歴
では、米倉涼子さんの学歴についても詳しく見ていきましょう。
米倉涼子の出身小学校
米倉涼子さんの出身小学校は、横浜市立希望ヶ丘小学校です。
画像出典元:Google検索画像
家族構成は、両親と4歳年下の弟の4人家族でした。
画像出典元:Google検索画像
父親は元ホテルマンで、母親は元英語教師だったと言われています。
高校を卒業した後、英語の専門学校に進学しようとしました。
後に英語をマスターし、ブロードウェイミュージカル「CHICAGO」に出演することもありました。
英語の能力は母親からの影響が大きかったようです。
小さい頃からピンクレディーの大ファンで、5歳の時にクラシックバレエを始めました。
小学校3年生の頃、名門バレエ団である「牧阿佐美バレヱ団」に入団しました。
このバレエ団は東京の中野区にあり女優の草刈民代さんも卒業生です。
スポーツは苦手でしたが小学生時代の成績は優秀でした。
米倉涼子の出身中学校
出身中学校は、神奈川県横浜市立南希望ヶ丘中学校です。
画像出典元:Google検索画像
中学時代、熱心にクラシックバレエを取り組んでおり当時の夢はバレリーナまたはプロのダンサーになることでした。
画像出典元:Google検索画像
実際、中学生の頃に有名なバレエ団でレッスンを受けていたり、舞台に出演していました。
画像出典元:Google検索画像
舞台のプログラムを見ると米倉涼子さんの名前がジプシーキャラクターの1人に、神田うのさんの名前が娘たちに記載されていることがわかります。
また、中学校時代の彼女は非常に真面目な生徒で勉強にも力を入れており学習塾に通っていました。
一方で、当時は人前に出ることが苦手で根暗であったと語っています。
画像出典元:Google検索画像
米倉涼子の出身高校
出身高校は神奈川県立旭高校で、偏差値は46の公立の共学校です。
画像出典元:Google検索画像
この学校は1973年に開校されサッカー部が強豪として知られ、部活動が盛んな学校です。
米倉涼子さんの1学年下には女優の須藤理彩さんが在籍しており2学年上にはお笑いコンビ「ラーメンズ」の小林賢太郎さんも在学していました。
部活動には参加せず代わりに熱心にバレエに打ち込んでいました。
インタビューで彼女はこう話しています。
私は20歳くらいまでバレエに没頭した日々を送っていて、
夏休みに海や山に行った経験もありませんでした。だからまだ泳げないんです(笑)
しかし、バレエの世界では練習や稽古がなければ
素晴らしいパフォーマンスをすることはできないということを学びましたね。
谷桃子バレエ団という名門団体にも通い、コンクールにも出場するほどの腕前を持っていました。
しかし、米倉さんは高校時代にいじめの標的にされ自身のインタビューで暗い性格だったと語っています。
私は学生時代にいじめられた経験があります。当時は性格が暗く、内向的なタイプでした。
話す時も、適当に”すみません”と一言言ってしまい
自分自身に嫌気が差してしまって、ますます自己抑圧してしまう・・・そんな感じ(笑)
他のインタビューでは、いじめの内容は「集団無視」だったと述べています。
クラスの女子全員から無視されるという経験をしました。
バレエに打ち込むことができたからなんとか乗り越えられましたが、当時はとても辛かったですね。
ある時、先輩から「考えることをやめてみたらどうか?」というアドバイスを受け性格が前向きに変わっていったそうです。
高校後輩である須藤理彩さんによれば高校時代の米倉涼子さんは男子生徒たちから非常に人気があったと言います。
当時から、すごく美しい先輩がいるということで
1年生の男子全員が米倉さんを見に行っていたんです。
彼女は本当にオーラが違いました。
ただし、高校時代の米倉さんは交際していた男子生徒はいなかったようです。
そして、高校2年生だった1992年、友人の推薦で米倉さんは国民的美少女コンテストに出場しファイナリストとなり審査員特別賞を受賞しました。
このコンテストのグランプリは女優の佐藤藍子さんで、演技部門賞を受賞したのはタレントの鈴木紗理奈さんです。
米倉さんは高校3年生の頃にファッションモデルとして活動を始めました。
その年から人気ファッション誌「CanCam」の専属モデルに選ばれ、7年間にわたって専属モデルを務めました。
それまでは人前に出ることが得意ではなかったそうですが、ファッションモデルの仕事をするうちに人前に出ることに慣れたそうです。
制服姿の写真を探しましたが見つかりませんでした。
米倉涼子さんが38歳の時に出演したテレビドラマ「35歳の高校生」で女子高生役を演じ、制服姿を披露し話題になりました。
米倉涼子の高校卒業後
高校卒業後は大学に進学せずに芸能活動に専念しました。
当初は英語の専門学校かトリマーの専門学校に通うことも考えていたそうですが、忙しい仕事のため芸能活動に専念することになりました。
学生時代はトリマーになりたいと考えていました。
またバレリーナにもなりたかったが、途中で無理だと思いました。
留学もしたかったです
と語っています。
米倉涼子のモデル業
高校卒業後はファッションモデルとして活動していました。
当時の「CanCam」には藤原紀香さんや長谷川京子さんなどの人気モデルが在籍していましたが、米倉涼子さんも彼女らと並ぶほどの人気を誇っていました。
また、米倉さんは「CanCam」のモデル時代に、芸能界の方々と合コンをした経験があるとバラエティー番組で話していました。
21歳の1996年にはユニチカとキリンビールのキャンペーンガールに起用されモデルとしての人気を確かなものにしました。
画像出典元:Google検索画像
しかし、ファッションモデルとして人気絶頂の23歳の時に女優への転身を宣言し、「CanCam」を卒業しました。
米倉涼子の女優業
画像出典元:Google検索画像
米倉涼子さんは、女優としての成功を収めた後も注目を浴びていますが、彼女が女優に転向したきっかけは、真田広之さんとの共演したドラマ「非婚家族」でした。
真田さんは米倉涼子さんの演技を指導し、影響を与えました。
当時、「真田広之のような演技の好きな俳優になりたい」と話していました。
また、女優を宣言する際には所属事務所の社長と一緒に「3年以内に主演を果たそう」という目標を立てました。
実際に、女優転向からちょうど3年目になった時には、連続ドラマ「整形美人。」で初めて主演を務めます。
その後「奥様は魔女」や「女系家族」などの人気ドラマで主役を演じ、連続ドラマなどでも高視聴率の女優として知られる存在に成長しました。
どんな役柄にも真摯な姿勢で臨み、その演技力は業界内で高く評価されています。
正統派のヒロインだけでなく、作品「黒革の手帖」などで見せた悪女の演技も好評を得ており、彼女の演技の幅広さが知られています。
画像出典元:Google検索画像
まとめ
米倉涼子さんが芸能界に入り、国内だけでなく国際的に有名な女優となった経緯をまとめました。
成功する前には苦労も多かったようで将来について「自分らしい、かっこよさを備えた女性になりたい」と話しています。
これからも米倉涼子さんの活躍を応援していきたいと思います。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました!
米倉涼子さんの注目記事はこちら!